2013年12月5日木曜日

学校保健研究会

 学校保健研究会の月例会が開催された。講師に田村毅先生を迎え、「保健室でできるカウンセリングのスキルアップ」のテーマの例会に養護教諭ら12名が参加した。

 講師の田村毅先生は思春期精神医学・家族療法を専門とする精神科医。2011年まで東京学芸大学教育学部教授を務め、現在は田村毅研究室を開設し、カウンセリングを中心としたクリニックを東京港区で行っている。

 講演の冒頭、田村先生は参加者に「カウンセリングと聞いて何を連想しますか?」と問いかけた。参加者からは相談・傾聴・悩みを聴くなどさまざまなカウンセリングのイメージがだされた。
 田村先生は「養護教諭はカウンセラーではないですよね。保健室の特性を活かした支援を子どもたちにできるといいですね」と言う。

 心が苦しくなった時、「心理化」「身体化」「行動化」どれかの方法で表していく。身体に表された子どもたちの心の苦しみを受け止められるのが保健室の特性、と田村先生。また保健室という場を活かすことも大切。ちょっと調子が悪い時、誰でも来れるのが保健室なので困っている子どもにとっては学校の中では大切な場所なのだ。

コーディネーターとしての養護教諭 

 養護教諭に求められるのが「連携」を促すこと。一人ひとりの子どもに向き合うことも大切だが担任・校長・学年主任・他の教諭らと連携し子どもの問題を共有していくことが問題解決の鍵になる。そして子どもの健康問題に悩む保護者を支援することも大切な役割になる。
 また、教育相談や児童相談所などの外部機関と連携していくことも時には必要になる。養護教諭はカウンセラーというよりもコーディネーターとしての役割が求められているといえよう。

2013年12月2日月曜日

親の承認を与える不安

親は子どもに怒り、苛立ちます。なぜでしょう?
怒りの感情は不安や恐怖の防衛です。怒りの背後には不安が隠されています。不安の気持ちは自分でも見たくないので、怒りという反動で自分自身を守っています。怒りは相手を威嚇して蹴散らします。相手との関係を断絶します。その結果相手がますます見えなくなり、不安が増大してしまいます。
なぜ、子どもに対して怒っているのか。その背後の不安を突き止めることができれば、怒りの鉄拳を鞘に納め、親の愛をそのまま子どもに伝えることができます。

 次男は中学3年生。これから高校受験を迎える。今日、学校で教師・親・生徒の三者面談がある。両親も兄・姉も、地元の公立中学から地域の都立高校に進学して、次男もその道を希望している。内申書が伝えられ、本人の到達可能な都立高校のランクが明らかになる。

息子は2年生まではそれほど勉強に関心を持たず、親は塾にも行かせず、マイペースで中学生活を送ってきた。それは父親も兄・姉も同様だった。兄と姉は中学3年に入ってから勉強に精をだし、夏休みには塾の夏期講習を受けて、それなりのランクの進学校に進んでいった。
息子も3年生になって、ずいぶんと努力していた。夏休みも夏期講習に通い続けた。親やきょうだいと同様にがんばりたい。良い人間になりたい。その気持ちがよくわかる。しかし、思うように成績は伸びない。平均すればオール3のレベルだ。他の家族はオール5に近いレベルだった。その差は大きい。2学期はずいぶんとがんばって成績が伸び平均4のレベルに近づいた。私がそれを評価しても息子はあまり喜ばない。心を貝にした方が傷つかないで済む。今の段階で自分にOKを出してしまうと、後にその期待が裏切られた時に傷つくことを知っているのだろう。彼はそんなやつだ。

多分、担任の先生から見れば息子は成績も素行も進学も何も問題ないと言われるだろう。しかし、親としては心配だ。息子の将来は大丈夫なのだろうか?幸せになれるのだろうか?
幸せになれないかもしれないと心配するのは、子どもを信じていないことになる。親のエゴに過ぎない。

親のようになりたいと私は思ってきた。
親の価値観を満たして、親から承認を得たいと思いながら10代を過ごしてきた。当時はそんなこと何も考えていないが、今から振り返ればそういうことだったのだと思う。自分の生を作り出した張本人である親から認められることで、自分の存在価値が生み出される。
どうして自分はこの世に生を受けたのか?
自分は必要だからこの世にいるんだ。
親からの承認を得て、自分の価値が出てくる。

学歴なんて全然すべてではない。偏差値が高くなくても、家族の期待に添えなくても、人は十分に幸せになることはできる。そんなことはあまりにも自明なのに、自分の子どものことになると思考が停止してしまう。どうやって息子を承認すればよいのだろう。今まで、如何に頭のよさ(学力)というひとつの指標に承認の材料を頼ってきたのかがよくわかる。サッカーがうまかったり(運動能力)、腕相撲が強かったり(体力)、イケメンで女の子にもてたり(美しさ)、ピアノがじょうずに弾けたり(音楽的才能)、背が高かったり(身体能力)、、、いくらでも承認の指標はあるのに、それを使わず学力のみに頼ってきた。私の父親も、母親も、そして私自身がintelligenceという資質を自分のプライドにして自分を作ってきた。私の妻もそういうう両親を持ち、そういう夫を選んだのだろう。上の子どもたちふたりも学力という指標を用いて高校・大学と自分を作ろうとしているし、その資質を幸いなことに持ち合わせているようだ。もし次男も同様だったらこれほど悩まないで済んだはずだ。そういう意味では、次男は家族が引き継いできた価値を根底から見直させてくれた。
息子は今、すごく努力している。その能力を開発しようとがんばっている。
その努力が成就すればよい。
でも、もし成就しなければ、彼はどうやって自分のプライドを作っていくんだろう?
それ以上に、親はどうやって子どもに承認を与えたらよいのだろう?

いとこのきょうだいがいた。
兄は勉強ができた。医学部に進学して医者となり、家族の誇りを受け継いだ。結婚した家族にも恵まれ、幸せな人生を送っている(ように見える)。弟は勉強ができなかった。子どものころから兄と比較され、いつも叱られ、ダメ役を担っていた。「三流大学」を出て家業を継いだものの産業構造の変化についてゆけず先祖代々続いた家業をつぶしてしまった。結婚もうまくいかず離婚して、地元の町を出て、今はどうしているのか親戚もあまり語らない。

妹は学業的には家族の敷いたライン、というか兄が2年先行して作ったラインに叶わなかった。中学・高校時代にはきょうだい喧嘩が絶えなかったし、親とも葛藤していた。本人に聞けばそうでもないかもしれないが、少なくとも兄はそのように見ていた。転機は美大進学だった。Artという両親と私にはない別の価値を進んだ。絵が好きという娘の資質を見出してそのラインを推し進めたのは父親だった。父の妹がやはり美大だので、そういうモデルは身近にあったのだろう。妹は大学に入ってからプライドを取り戻し、きょうだい仲も回復した。私は大学を6年行ったので、彼女の方が先に就職して、社会人の妹がまだ学生の兄にお年玉をくれたことが1回だけあった。

妻の子ども時代には兄の後を追っていた。優秀な兄は親の賞賛を浴びていた。妹も親の承認を得たい。そのために、兄の進んだ有名進学校、有名大学を目指すが叶わない。その次のランクの高校と大学に進学した。傍から見れば十分じゃない!と思うのだけど、本人にしてみればNo.1の兄の学校ではない、No.2に行ったことが引け目であった。結婚後も、母親とずいぶん葛藤していた。子どもを産み育て、母親というアイデンティティも獲得したけれど、自分という基盤はどことなく揺らいでいた。

私は苦労してこなかった。「勉強ができる」という日本社会の価値を成就して、家族からの承認を苦労することなく得てしまった。それを得なかったらどうなるのか体験的に想像できない。幸せになれたか否かわからない。

いま息子に向き合い、私は父親としての自信がない。学業以外の道でどう彼が親の承認を得て、プライドを持って自分を作って行けるのだろうか。どうやって父親が彼の価値を認められるのだろうか。わざとらしくやってしまったら彼にとって意味がない。

、、、などと親が考えるのは心配し過ぎのはずだ。そんな親の思惑とは別に、子どもは自分なりの価値を見出すのだろう。そこまで親が手を貸したり詮索すす必要はない。それはわかっているはずなのに、あいかわらず子どもが自分の価値を見いだせるための下地を作りたいと考えている

彼に対する無条件の承認を与えたい。根底の部分で彼を信頼したい。勉強が出来なくても、運動が苦手でも、背が低くても、暴れん坊でも、本当のところで彼は「良いやつ」なんだ、生きる価値がある人間なんだ」というメッセージを送りた。親にとって彼はいかに大切な存在であるか。それは甘やかしてお金をあげたり、彼の言いなりになることではない。彼の強さを信じて、彼の獲得したもの、彼の努力を評価したい。彼の進む道を応援したい。
偏差値の高い大学に行かないかもしれない。
大学にも行かず、高卒かもしれない。
正社員になれないかもしれない。町工場で働くかもしれない。スーパーで働くかもしれない。仕事を転々とするかもしれない。
彼の人生がどんな状況であっても、私にとってはかけがえのない存在だ。幸せになってほしい。この世に生を受けたことを喜んでほしい。
幸せか否かの尺度は親が押し付けない。息子がどの尺度を獲得しても、親はその尺度を受け入れる。
そのことを理屈では理解できる。しかし、その自信がない。私は今まで自分が経験してきた尺度しか知らない。新しい別の尺度を受け入れることができるのか、自信はない。